第2回 マンガの歴史

開講日: 2018年4月17日

​講師:吉井順一

​マンガの歴史、フォーマットの変容、漫画家の生態

 2回目の今回は、講義全体のイントロダクションとして、吉井順一氏によるマンガの歴史についての講義が行われた。かつて漢字で表記された「漫画」はその大衆化に伴い、いつしか「マンガ」とかな書きされるようになった。そして現在は海外において“Manga”の表記が通用するまでにひろく発展を遂げた。講義前半は松本零士氏と日高敏氏による著作『漫画大博物館—1924-1959』を引用する形で、戦前から現代に通じる週刊マンガ雑誌の誕生に至るまでのマンガ文化の変遷が示された。

 戦前の雑誌の主役は読み物であり、マンガはその付録としての位置づけが主流であった。内容も短編が中心であり、長編のストーリーものはまだ存在しなかった。子ども向けの「清く正しく美しく、淡々と同じような物語」(吉井氏)が多くを占めた。戦時中には世相を反映するように内容も軍国主義的なものに変わる。「勇ましいが、寂しい絵柄」(吉井氏)。

 戦後、はじめて本格的なストーリー漫画が花開くことになる。しかし、その中心は東京ではなく大阪であった。東京では未だ教育的な児童漫画が中心であったのに対し、大阪においては自由な発想で作られたストーリー漫画が次第にみられるようになる。吉井氏は、出版社や印刷業者が集中して主要な流通網の中心にあった東京とは違い、大阪では小規模で『ゲリラ的な』出版も活発に行われ、こうした土壌が二所の違いを生んだのではないかと分析する。

 貸本漫画や付録漫画本の隆盛といったフェーズを経て、1950年代末から60年代にかけてのテレビ普及期には、マンガも大きな変革の時を迎えることになる。1959年の『週間少年サンデー』と『週刊少年マガジン』の創刊である。

 

 後半はマンガの制作をとりまく環境についての紹介がされた。「週刊マンガ雑誌の連載16ページをマンガ家一人で書ききるのは到底無理」(吉井氏)であり、アシスタントとの分業が一般的だという。分業の度合いはマンガ家によってそれぞれ異なっている。また、編集者はマンガ家の支援において重要な役割を果たしている。スケジュールや内容についての相談を受け持つのみならず、様々な「業界の落とし穴」(吉井氏)が潜む印刷や出版といった商品化の過程において、その特性を理解した編集者のサポートは不可欠なものといえる。